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2010年6月10日
リーマン前に戻れるという幻想の陥穽
チーフエコノミスト
増田 貴司

1.景気見通し:「リーマン前に戻れるという幻想の陥穽」  欧州初の金融混乱が先行きに暗い影を落としているとはいえ、ここ数ヵ月の実体経済に 関して特筆すべきは、世界経済が想定以上のペースで回復していることだ。指標によって はリーマン・ショック前の水準に戻りつつあるものも出てきたことで、人々の間に安堵感が 広がりつつあることは見逃せないポイントだ。  IMF(国際通貨基金)の世界経済予測(2010 年 4 月発表)では、2010 年の世界全体の経 済成長率は 4.2%になる見通しだ。これは 1980 年以降の平均成長率である 3.4%を大きく 上回る高い数字であり、2005 年(4.5%)に迫る高成長である。また、世界の半導体出荷額 を見ると、ガートナー社の予測では 2010 年は前年比 20%増の 2764 億ドルとなり、既往ピ ークの 2007 年(2556 億ドル)を上回る見通しである。  いずれも半年前の予測と比べて大きく上方修正されているが、その理由は中国、インド などの新興国経済が想定を上回るペースで成長していることによる。「新興国=高成長、先 進国=低成長」の構図が鮮明となる中で、世界全体の需要はリーマン前の水準に回復しつつ あるのだ。  実際には、世界経済はリーマン以前と以後とでは大きなパラダイムシフトが生じており、 もはやリーマン前の景色に戻ることはないと考えるべきである。しかし、世界の需要の総 量が予想外に早くリーマン前の水準に回復しつつあることで、足元では人々のマインドが 好転し、「リーマン・ショックの後遺症は思ったほど深刻ではなかった」、「再び元の世界に 戻るかもしれない」といった行き過ぎた楽観論が台頭しやすい状況になっている。こうした 安堵感は、短期的には企業や家計のマインド改善を通じて景気の押し上げ材料となるが、 中長期的には世界の環境変化に対応するための企業の改革への取り組みペースを遅らせる ことにより、潜在成長率の低下につながる恐れがある点に注意が必要だ(詳細は 3 で後述)。  輸出頼みで成長するしか道のない日本経済において、海外経済の予想以上の堅調という 追い風を受けて、輸出主導の景気回復が鮮明となっていることは当然のことと言える。2010 年度の日本の実質 GDP 成長率は 2.2%と 3 年ぶりのプラス成長になると予想している。2011 年度は多くの国で金融危機後に打たれた景気対策の効果が剥落するために、日本の輸出は 減速を余儀なくされ、実質 GDP 成長率は 1.7%に鈍化する見通しだ。  今回の日本の景気回復は、2002 年初から 6 年近く続いた前回の景気回復局面と似ている との指摘がある。確かに、はじめに輸出頼みの業績改善が続き、それが徐々に設備投資の 増加や賃金の上昇につながるという回復の類型は前回と同じになりそうだ。輸出の増加を 受けて、鉱工業生産の水準も 10年 4月にはリーマン・ショック直前の 08年 8月に比べて 93% まで回復してきた。  しかし、今回もお馴染みの輸出主導の回復パターンだと認識して安心するのは危険であ る。なぜなら、企業を取り巻く経営環境はリーマン前とは一変しており、輸出の増加が国 内民間需要の回復へと波及していくペースは前回よりも鈍いと予想されるからである。設 備・雇用の過剰感が依然払拭されないことや、投資マインドが戻っても国内でなく海外に投 資する傾向が強いことなどから、国内の設備投資や雇用は過去の景気回復局面よりも低い 伸びにとどまろう。いざなぎ景気を抜いて戦後最長の長さとなった前回の景気回復局面(02 年 1 月~07 年 10 月)は「実感なき景気回復」と言われたが、今回はそれ以上に実感の乏しい 景気回復になるだろう。 2.金融環境:「日銀の"奇策"に期待される効果とは」  ギリシャの財政問題に端を発した欧州発の金融危機は収束の目処が立たず、長期化しそ うである。欧州危機は、欧州向け輸出の減少、信用収縮による需要減少、株価など資産価 格の減少やユーロ安の影響など様々なルートを通じ、今後世界の実体経済の下押し要因と して作用しよう。一方で、今回の欧州危機は、米国の住宅バブル崩壊に始まった金融危機 が依然収束してないことを世に知らしめたことで、世界の景気回復への過度の楽観論を冷 やす効果があると同時に、日本など深刻な財政課題を抱える先進国に対し財政健全化ペー スの加速を迫る外圧を強める効果があると考えられる。  また、日銀が 4 月 30 日に新規導入を決め、現在スキームを最終調整中の「成長基盤の強 化を促す新貸出制度」については、金融政策としては違和感のある政策である。これは、政 府から日銀にインフレ目標の導入や長期国債買い切りオペ増額などを求める圧力が強まる ことが予想される中、先手を打って政府の成長戦略を手助けする新制度を繰り出して、日 銀に対する追加金融緩和要求をかわすための"奇策"と思われる。企業の資金需要が乏しく、 民間金融機関にカネがだぶついている現状では、同制度の効果も限定的であろう。  しかし、この日銀の奇策は、「日本の景気は循環的に回復しているが安心してはならない。 中長期的に生産性を高め潜在成長率を引き上げることが重要だ」というメッセージを発信 したものだと考えれば、意義のある政策と言えよう。鳩山首相の退陣と菅政権誕生という 政治混乱の中で今月発表される政府の新成長戦略が停滞することが懸念される中で、日銀 が成長基盤強化の支援策に踏み切ることは、政府に対して成長戦略を遅滞なく推進するこ とを促す効果もあるかもしれない。 3.注目点:「景気回復に安堵せず企業は変革を進めよ」  世界全体の景気が予想外のペースで回復したために、忘れかけている人も多いが、金融 危機後、世界の経済構造はニューノーマル(新たな常態)に移行しているという現実を直 視すべきだ。実は重大な構造変化があって環境が一変しているのに、「今回もいつもと同じ 輸出主導の景気回復局面だ」と認識してしまえば、日本企業の従来路線の手法や戦略が今後 も通用すると錯覚する恐れがある。  構造変化の最たるものは、世界経済の重心の変化、すなわち新興国経済のウエートの高 まりである。先進国がバブル崩壊の後遺症や人口減少で低成長にあえぐ一方、中国やイン ドなどの新興国は高成長を続け、存在感を高める。この結果、かつて主要市場だった先進 国はマイナー市場に転じ、新興国市場が今後の主戦場となる。この環境下で日本企業がグ ローバル競争を勝ち抜くには、今までとは違った戦い方が求められる。  多くの日本企業は、先進国市場や富裕層向けの高付加価値商品で儲けてきたために、急 拡大する新興国市場の需要を取り込むための体制づくりが遅れている。多くの日本メーカ ーは、従来、新興国向けに先進国向け商品の仕様を一部変更した廉価モデルを投入してい たが、これでは顧客ニーズを的確に捉えることができないと気付き、初めから新興国市場 に照準を合わせた現地専用モデルを開発・投入する動きが加速している。しかし、日本企業 がこのような本格的な新興国市場開拓に着手したのはここ 2~3 年のことで、韓国や欧米の 企業よりずっと出遅れている。欧米や韓国の主要企業の 2009 年度の連結純利益がリーマン・ ショック前の 6~9 割まで回復したのに対し、日本企業はまだ 4 割までしか回復していない (出所:2010.6.3 日本経済新聞)背景には、「新興国シフト」の遅れがある。  また、新興国企業が日本企業の強力なライバルとして台頭してきたことで、従来とは「異 なるルール」や「異なるコスト構造」でグローバル競争を仕掛けてくるプレーヤーが登場す るようになった。こうした中、海外勢と互角に戦うためには、利益率を高めて資金力をつ けたり、ビジネスモデルを転換したりする必要がある。国境や業種の枠組みを越えた合従 連衡や事業再編も避けては通れないだろう。  かつては日本の競争力が圧倒的に強かった高付加価値な部品・材料(高度先端部材)につ いても、韓国や台湾が競争力をつけてきており、国際分業が進展する中で日本企業の優位 性が揺らぎつつある。アップルの携帯電話「iPhone」の 07 年の発売の初期モデルでは、タッ チパネル部品の 9 割以上が日本製だったが、最新モデルでは韓国や台湾製が多く使われ、 日本製部品の比率は低下している。10 年 4 月発売の「iPad」には日本メーカーの部品はわず かしか採用されていない。  このように、今やグローバルな競争環境は激変しており、日本企業のかつての「勝ちパタ ーン」は通用しない。足元の景気回復に安堵し、「ニューノーマル」の環境に対応するための 変革の必要性を忘れてしまった日本企業は、いつまでたっても閉塞感を打破できないだろ う。 (本稿は、2010 年 6 月 9 日 QUICK「エコノミスト情報 VOL.593」として配信されました)