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2016年1月12日
忘れた頃に再度チャレンジしてみよう
企画管理部
日比野 淳一

いきなり遊びの話で恐縮だが、最近麻雀に没頭している。とは言ってもインターネットゲームである。長男から紹介されたのだが、30年以上前の学生時代のものとはまるで異なるゲームと言ってよい。偶然性の高さは相変わらずだが参加者は真剣そのものだ。インターネットにより、多数の参加者が同じ土俵で長期間競い合うことが可能になり、真剣勝負の土壌が生まれたといえる。また、今は誰でも短期間でそれなりの雀士になれる。リーチした時の上がり率や捨て牌別の振込率など、以前は経験によって得られていたものが今はデータとして体系化されているからだ。「この先輩はなんとなく強い」と思っていたのが、「この人は勉強しているから強い。ならば自分も勉強しよう。」に変わり、さらに言うなら勉強しなければ通用しなくなった。このような例は他にも多いようだ。まさにインターネット普及による大きな変化である。  話は変わるが、自分は「国語」という科目は小学生以来手の施しようがないぐらい不得意であった。自慢ではないが文学作品なども必要に迫られた時以外ほとんど読んだことがない。一方家内は結構読んでいる。その家内から最近感動したと言って本を紹介された。皆さんもおそらく一度は読まれたことがある、「二十四の瞳」である。自分も小学生か中学生の頃読んだ記憶がある。会社との往復の時間を持て余すこともあり、手に取ってみて、がくぜんとした。電車で座りながら読んでいる最中、涙がぼろぼろと出てくる。以前読んだものと同じ文章のはずなのに。ある年齢に達してから読むと、受け止め方がまるで違うのである。以前に読んだ時は、このような境遇は大変だとか、自分ならこうするという程度でしか考えていなかったように思う。今は大人(親)の立場で子供たちとその環境を見ることになる。そう、作者もそうであったに違いない。今にしてようやく、国語の問題によく出てくる、「作者の言いたいこと」の問題が少し解けたような気がする。  自分の母親は78歳になった。自分が子供の頃は親の気持ちなど分かっていたような気がしていたし、よく考えもしなかった。でも自分がこの年になって初めて、「親孝行をしたいと思った時には親はいない」という言葉は本当にその通りだと思うようになった。自分が親の心情を少しずつ分かるようになったのは自分に子供ができてからだ。今でさえ、分かっているのは、親が50代前半のころの心情でしかないと思う。7歳の親を心底理解できるのはやはり自分がそのぐらいの年齢、つまり今の自分の子供たちが50歳近くになった時だと思う。人間の理解力などその程度のものだ。だから、自分の子供が親の意に反する行動をしたとしても仕方のないことだと思うようになった。  人間の理解の仕方は年月の経過で変わるし、以前たしなんでいたものも技術の進歩で劇的に変化していることもある。若い頃に読んだ書物をあらためて手に取ってみたり、以前の趣味に再び取り組んでみたりすると、新しい発見がある。